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20期 宮森和彦さん 能登半島地震災害支援レポート
8期  遠山堅太郎さん ブラジルでのくらし
4期  船曳孝彦さん   70年前執筆の論文と現在それを読んでの感想

20期(1967年(昭和42年)卒業 
                  宮森和彦さん

  なお、写真は撮影当時のものです。引き続き活動しているので続報を伝えます
   最新版は  能登半島地震災害・水害支援レポートその5です。上から新しい順になっています。
 

能登半島水害支援レポート 震災支援と併せて その5

2024102

宮森和彦

 

920日、長野県の友人宅での稲刈りを終え、自家用車で能登半島へ向かう。のと里山海道を通り、輪島に着いた。以前、避難所として使われていた輪島中学を訪問した。もう、避難所は閉鎖し、避難者のために、エアコン、冷蔵庫などを稼働する発電機は撤去されていた。輪島から能登町へ移動する。能登町にあるJOCA災害支援ベースに到着し、関係者に挨拶する。明日からの活動、ベースでの生活などについて説明を受ける。以前、1月に地震災害支援で一緒に活動していた仲間と再会し、心強かった。

 

21日、朝のミーティングで、私は、仲間とともに柳田仮設住宅の集会所へ行き、支援活動することになった。ミーティング後、みんなでベースの掃除をやった。雨が降っているので、室内だけの清掃になった。9時前、土砂災害緊急速報が発令された。レベル4避難指示だった。こんな日に支援活動へ行くのか心配だったが、仲間とともに松波仮設住宅を経由し、柳田仮設住宅の集会所へ行った。大雨の影響で、近くを流れる川が氾濫しそうだし、土砂崩れ、倒木、冠水などの障害があったが、ようやく集会所に入った。そこには、仮設住宅の小学6年生が一人いた。私をこの集会所に連れてきた仲間は、買い物のため、車で集会所を離れていった。残っているのは、6年生と私の二人だけ、集会所は、停電していた。水道の水は出ているが、いつ断水になるかわからない。冷蔵庫に飲料水はあるが、食料はない。通信網は大丈夫だ。この地域で避難所になっているのは、小学校と公民館だ。土地勘がないので、グーグルマップでそれらの位置を確かめる。いざというときには、6年生と一緒に避難所へ行かなければいけない。仮設住宅の住民が、大雨の中、この集会所に来て、「上町仮設住宅の集会所で予定されている福井大学が主催する血栓検査は中止する」ということをJOCAへ連絡してという。すぐJOCAに連絡した。いろいろなところで通行できず、迂回しているようだった。停電が回復し、テレビでニュース、気象情報を見た。この大雨で、能登町だけでなく、輪島市、珠洲市も大きな被害を受けている。この柳田仮設住宅の横に流れている川が今にも氾濫しそうな状態だった。そのうちに、仲間が車で戻ってきた。やはり道路が通行できず、こんなに時間がかかったと言っていた。集会所の戸締りをし、仮設住宅に残っている住民に、暗くなる前に、小学校または公民館(避難所)へ移動するよう、1軒ずつ声をかけて回った。JOCAベースも氾濫しそうな川の横にあり、一時的に、より安全な日本海俱楽部へ移動した。JOCAのメンバーは全員無事だということが確認された。我々もこの大雨災害に遭った被災者だ。そこは、今年1月にJOCAベースとして利用していたところだ。その時と同じように床にブルーシートを敷き、寝袋で寝た。

 

22日(秋分の日)、まだ、雨が降り続いている。我々が寝ていた日本海俱楽部レストランは、きょう営業するという。寝袋やブルーシートを片付けた。現在、大雨洪水特別警報が発令され、きょうの支援活動は中止となった。そうはいっても、川のそばにあるJOCAベースから運んでこなければいけないものがあるという。雨が弱くなり、周辺の状況、道路の状況をチェックし、安全を確保しながら、仲間とJOCAベースへ行き、必要な物資を運んだ。雨が止み、仲間とともに、能登町にある仮設住宅の被害状況をチェックすることになった。上町公民館、柳田公民館、鵜川仮設住宅、みずほ公民館、藤波仮設住宅集会所を回り、職員、住民に被害の状況を聞いた。

 

23日振替休日、曇っているが雨は降っていない。朝のミーティングで、能登町では、柳田、上町、岩井戸の公民館が避難所になっているという報告があった。一方、輪島市では、4つの仮設住宅が床上浸水しているそうだ。安全が確保されてから、今日の支援活動の支持をするという。10時ごろ、指示があり、仲間と柳田仮設住宅集会所へ行った。きょうは、学校が休みで、小学生が集まってきた。21日にこの集会所にいた6年生も来た。若者、年配者は集会所に来なかった。子供たちが45人集まり、楽しい時間を過ごすよう配慮した。水道水が少し白濁しているようで、能登町役場にJOCAから調査するよう依頼した。日本海俱楽部へ戻り、活動報告する。18時過ぎ、輪島のJOCA調整員から電話があり、明日の8:30までに輪島に来てくれという連絡を受けた。能登町のJOCA調整員に明日のミーティングには参加できず、早朝に輪島へ移動することを伝えた。

 

24日、晴れている。能登町から輪島へ、自家用車で移動した。途中、大雨の影響で、道路が片側交互通行だったが、無事、約束の時間前に、輪島JOCAベースになっている修養館に到着した。きょうから3日間は、40名の一般ボランティアが来て、家具の移動、泥かきなどをやることになっている。JOCAは、社会福祉協議会とともにボランティアの支援をすることになっている。8月までは、輪島市の避難所で運営支援をしていたのだが、今回は、ボランティアの支援で、熱中症や埃を避けるため、帽子、ゴーグル、マスク、長靴という姿で活動した。ボランティアの活動が円滑に進むよう、一輪車が通れるよう道路に堆積した泥をかいたり、ゴミの分別をしやすいよう看板を立てたり、ボランティアと一緒に家具を運び出したりした。ボランティアの活動時間は、1000から1430までだが、JOCAボランティアは、一般ボランティアが来る前に、一輪車、スコップなどの道具を用意し、帰った後、道具を片付ける作業がある。一日活動するとへとへとになる。こんな活動を3日間続けた。


能登半島地震災害支援活動レポート その4

                                                                202484

                                                                  宮森和彦

202411日に起きた能登半島地震の災害支援に行った。

期間は、18日から119日、活動場所:能登町

    215日から313日、活動場所:輪島市

    316日から331日、活動場所:輪島市

    424日から516日、活動場所:輪島市

    628日から729日、活動場所:輪島市

と計5回にわたって支援活動を行った。

地震発生当初より、社会福祉法人佛子園、公益社団法人青年海外協力協会(JOCA)と協働で被災地へ入り、支援を行い、私もその支援に参加した。

 

能登町では、支援を行う前の段階で、我々ボランティアの生活を確保することから始めた。拠点となる日本海俱楽部のレストランで瓦礫、ガラスを片付け、床にブルーシートを敷く。そこで寝袋を使い、寝泊まりすることになった。

 

日本海俱楽部に電気が通ったのが17日で、一部の暖房や照明が利用できた。一方、輪島市では、電気の復旧が遅れ、しばらくの間、発電機を使った生活をしていたと聞いている。

 

断水は、能登町、輪島市で続いていた。したがって、トイレは、凝固剤を使い、処理していた。しばらくすると、仮設トイレが設置され、用を足せるようになった。しかし、汲み取りに2日来ないといっぱいになり、使えなくなる。汲み取り業者に、毎日、汲み取りに来るよう依頼する。

 

通信網の回復は、各社によって違いはあったが、110日ぐらいには回復した。

 

実際、能登町での支援活動は、支援物資の運搬が主たる活動だった。佛子園、JOCAが呼びかけ、支援物資が金沢市に集まっている。金沢から能登町まで支援物資を運んだ。道路が寸断され、発災前、2時間余りで到着できたが、6時間かかった。金沢から能登町へは、支援物資を運び、能登町から金沢へは、能登町で処理できない可燃物や汚物などを運んだ。能登町に支援物資を置くところがなく、ビニールハウスを使うことにする。ハウスの中をきれいにし、支援物資を仕分ける作業を行った。そのビニールハウスから、能登町にある集会所や避難所に支援物資を届ける。早く飲料水を届けてくれ、寒いので、灯油が欲しいといった声を聴き、金沢へ行って、要望に沿った物資を届ける。時間が経つにつれ、支援物資が増えてくる。最初のころは、不足していたものが、足りるようになり、だぶついてくるものも出てきた。

 

輪島市での支援活動は、避難所の運営補助を行った。私が担当した避難所は、輪島中学の避難所で校舎棟、新体育館、旧体育館の3か所に合計350人以上(220日現在)の人がいた。避難所を運営するのは、輪島市の職員、[1]対口支援で派遣されている大阪府の職員で構成されている。我々JOCAボランティアは、輪島市と大阪府の職員をサポートする活動を行った。被災者の食事は、自衛隊の炊出しで提供されているが、とても自分たち被災者が運ぶことができない。我々が、食事を校舎棟、新体育館、旧体育館の3か所に運び、配膳の補助をする。トイレ掃除も同じで、とても被災者が掃除をすることができない。我々が、仮設トイレ、トイレカーにあるトイレの掃除をした。

断水の時期は、ポリタンクで水を運び、その水で掃除をする。大変な作業だった。

 

我々ボランティアは、被災者に寄り添った支援活動をしている。避難所にいると、体を動かす機会が少なくなり体調を崩すことが懸念される。みんなでラジオ体操しましょうと声をかけ、一緒に体操する避難者仲間を増やした。一緒に廃材を使って、碁石や碁盤を作り、五目並べをする。少しでも楽しい時間を過ごせるように避難者とともに活動した。一方、対口支援で派遣されている大阪府職員の中には、俺たちが助けに来てやっているという、上から見下すような態度、発言があり、違和感があった。

4月には、輪島中学で授業が始まり、校舎棟を学校側が使用するため、避難者が新体育館と旧体育館の2か所へ移動する。さらに、仮設住宅への入居が始まり、避難者が少なくなった。5月末には、対口支援が終了し、大阪府職員が撤退した。輪島中学避難所は、旧体育館(1か所)に集約され、22人(628日現在)の避難者がいる。それまで避難所運営をしていた輪島市が、一般社団法人ピースボートという団体に委託した。我々JOCAボランティアが、引き続き避難所運営をサポートしている。今では、食事の配膳を自分たち避難者が行っている。トイレ掃除も自分たちで当番を決め、自主的に掃除をしている。我々JOCAボランティアのサポートなしでもなんとかやっていける状況になってきた。避難者が退所したしたあとの段ボールベッドの片付けや掃除などの補助的な作業はあるが、避難所での支援活動は収束を迎えている。

 

これからは、避難所から、仮設住宅へ移動した被災者が孤立しないような支援が求められている。



[1] 対口支援とは、ロシアに対抗する支援ではなく、疲弊している自治体(輪島市)をほかの自治体がサポートするシステムで輪島中学の避難所では、大阪府職員が1週間交代というシフトを組み、4か月余りの期間サポートしていた。


能登半島地震災害支援活動レポート その3

                         
2024年3月31日
                           宮森和彦
 3月14日、一度、高尾の自宅へ戻り、16日午後から輪島へ向かった。17日から支援活動を再開した。今回は、避難所になっている輪島中学校の支援のほか、輪島市職員の子女を見守る活動が加えられた。輪島市職員は働き詰めで、子育て世帯の中心となる父親、母親の長時間勤務で疲弊している。彼らを側面からサポートし、直接、支援にかかわるのではなく、間接的に災害支援を行う形になった。平日(月曜から金曜)は、午後3時まで小学校の授業が、輪島高校で行われている。午後3時から、午後5時まで、カブーレカフェという就労支援を行っている施設の一部を借用し、輪島市職員の子女(小学校1-3年生)10名程度を見守る活動を行った。その中には、まだ、避難所で生活している人も含まれている。休日(土曜、日曜)は、授業がないため、午前9時から午後5時まで、カブーレカフェやマリンタウン(屋外に遊具がある子供の施設)で子供を見守った。学校や家庭では、よい子としてふるまうことが多いようだが、見守っている時間には、心に残っている不安、不満をぶつけるようなところが見受けられた。それでも、震災で受けたショックや不安などに打ち勝って、素直に育ってほしいという気持ちから、子供たちに接し、少しずつ心を開いてくれるようになってきたように感じる。心のサポートができたかな。
4月になると、学校の授業が始まり、仮設住宅への入居も加速される見込みである。これから、避難所の支援から、仮設住宅へ移動した人への支援へと、支援の形が変化していくことだろう。
 
能登半島地

能登半島地震災害支援レポートその2
                           2024年年3月14日
 2月8日にJOCAから災害支援活動ができるボランティアが必要だという連絡(メール)があり、すぐ、登録した。
翌日の9日にJOCA担当者から、災害支援の依頼文書が届き、前泊するホテル名を連絡し、参加することを知らせた。活動期間は、2月16日からということになった。
前回の支援活動場所は、能登町だったが、今回は、輪島市になった。
輪島市では、JOCAの活動として、河井小学校、輪島中学と輪島高校の3つの避難所の支援を行っている。その他にも、輪島市職員の子供たちの見守りや仮設住宅へ移動した人の支援を行っている。私は、主に輪島中学の避難所の支援を担当した。輪島中学では、輪島市の職員が中心になって避難所を運営しているが、避難者が300人以上いて、とても疲弊している輪島市職員だけでは避難所運営ができない。対向支援として大阪府が協力し運営している。行政(輪島市+大阪府)が行う支援の合間を、我々、JOCAボランティアが担っている。具体的には、避難者との傾聴活動でどのような悩みがあるのか、どのような援助が必要なのかを聞き出し、迅速かつ的確な支援を提供する。また、被災者には、今の段階で、手に負えないトイレ掃除などを分担している。被災者と一緒に、碁盤を作り、五目並べで遊んだ。少しでも楽しい時間を共有する活動を行っている。


廃材を使って作った碁盤で五目並べ
勝っても負けても楽しい時間

仮設トイレ清掃にウイルス対策エプロンを着て、感染防止に努める

自衛隊の炊き出しを配膳する手伝い ラ     ラジオ体操で体を動かそう


  市役所               雪の輪島中学

震災害支援レポートその1                                            2024年1月22日
                                 
 2024年1月1日に起きた能登半島地震の災害支援に行ってきた。期間は、1月8日(移動日)、1月9日から18日の10日間(活動日)、19日(移動日)の12日間である。
社会福祉法人佛子園、公益社団法人青年海外協力協会(JOCA)と協働で被災地へ入り、支援を行っている。私もその支援に参加しようと決意した。
1月5日にJOCAから災害支援活動ができるボランティアが必要だという連絡(メール)があり、すぐ、登録した。
6日には、いつでも支援活動ができるよう、八王子社会福祉協議会へ行き、ボランティア保険に加入した。
翌日7日と、8日に連絡があり、9日から災害支援活動ができないかというJOCAからの打診があり、参加する意志を伝えた。
8日は移動日でその日のうちに、松任駅周辺のホテルへ宿泊しろという指示で、8日の午後我が家を出発し、松任駅近くの松任ターミナルホテルに宿泊した。
9日5:30、佛子園に集合という連絡で、そこへ集合した。佛子園の理事長であり、JOCAの代表理事・会長を務める雄谷(協力隊OB)さんの話を聞き、被災地の能登町へ向かう。通行止めの道路があったり、災害支援の車両だけが通行できる制限があったり、渋滞がひどく、我々の支援活動の拠点となる佛子園の施設、日本海倶楽部(能登町)に着いたのは、12時を過ぎていた。休憩を含め、6時間以上かかった。
被災地では、まだ、一般のボランティアが入れる状況ではなく、制限されている。能登町では、一部で電気が復旧したばかり、通信網はまだ回復せず、断水が続いていた。

活動した内容の主なものは:
 避難所や福祉施設をまわり、支援物資のニーズ調査および配送
 支援物資の拠点になっているシェア金沢から能登町までの輸送
 能登町へ運ばれた支援物資の整理
 避難所、集会所への炊き出し支援
である。

余震が続く中、被害家屋からものを盗むといった治安の悪化が報道されている。我々、ボランティアは、2名以上で行動し、被災者に寄り添う活動を展開している。
10日間の活動期間中に、通信網が回復する。ガソリンなどの燃料が制限なく供給される。一部の店舗が開店する。自衛隊による風呂が被災者に提供される。少しずつではあるが、普段の生活へ戻る道を歩んでいる。

我々、ボランティアの宿泊は、被災している日本海倶楽部のレストランで、剥がれ落ちた壁やガラスなどを取り除き、床にブルーシートを敷いて、その上で寝袋を使い、寝ている。

 能登町の災害支援物資        シェア金沢にある災害支援物資倉庫

 津波により被害             地震により倒壊した家屋

  道路の被害の状況 


     建物の被害も大きい

 危険な道路の状況           感謝されるボランティア
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8期(1955年(昭和30年)卒業) 
               遠山堅太郎さん
 2024年6月寄稿

1957年家族でブラジルに渡り、ブラジルのフォルクスワーゲン社でブラジルの「カブトムシ」の後継車を設計しましたl

私は、1957年の4月に、東京都立工芸高等学校の精密機械科を中退して、家族とともにブラジルに移住しました。

全く農業に従事したことのない家族が、なぜわざわざブラジルへというと、戦時中、父が
三菱,の軍需課長をしていた為に、終戦直後から、常にGHQの監視下に置かれて、何をしても必ず途中で潰される状態であった為、力尽きて、海外への移住を決意したというわけでした。
ブラジルは、戦前、父が現役のころ、ガラスの原料の買い付けの為に社用で訪れた事があり、緑豊かな、地下資源が豊富なうえ、地震などの天災もなく、日本の約24倍という広大な国土を持つ前途有望な国と確信していたということでした。

丁度その頃、日本政府が都会に住む家族をブラジルに農業移民として送り込んだらどのような結果が出るかと言う政策が有り、それに応募した東京と神奈川から応募した家族を、埼玉県の農業試験場で3か月の研修を受けさせ、その中から7家族を選んでブラジルのサンパウロ州にあるスイス耕地と言うコーヒー園に送り込んだのです。

その中から選ばれた7家族の中に、のちにプロレスのアントニオ猪木となるの相良さんのご家族も一緒で、彼は四男、長男の寿一氏は少林寺拳法の4段でしたので、毎日、一か月超の船旅の甲板で空手の手ほどきを受け、その後もコーヒー園での過酷な労働の後、遅くまで練習に励めたおかげで、のちにサンパウロの街に出て、仕事をしながら夜学に通う体力を作ることができました。

ブラジルの農園に着いたころのアントニオ猪木さん(中央)と
遠山堅太郎さん(右下)(1957年)

サンパウロ市に出ると、戦前からブラジルにあった三菱系の、東山企業、銀行と商事部の頭取の方が、父の昔の同僚だったので、父の七光りで、商事部の農機具部門に入社させていだだき、そこで働きながら夜学に通うという日が始まりました。

南米大陸の13か国の中で、ブラジルが唯一のポルトガル語で残りは全てがスペイン語です。
ポルトガル語は英語と違って女性名詞、男性名詞などと、それに合わせての語尾変化と、わけの分からないものがありますが、発音は、すべての単語が母音で終わりますので、何の問題もありませんでした。
ただし、RとLの発音の違いにはかなり苦労しました。

ポルトガル語が、かなり分かるようになった時点で日本に住んでいた姉、彼女は松沢中学校の4期生、に頼んで、私の卒業証書の公訳したものを送ってもらい、サンパウロの工業高校に入学して4年の間、主席を通して卒業、その後、サンパウロ大学で、夜学には工業大学はありませんでしたので物理学を専攻しました。夜学は、依存症になる⁉

東山商事部で1年過ぎたころ、ある日系企業から3倍の給料のオファーが有ったので、父が病床にあったこともあり、そちらに鞍替えしました。

工業高等専門学校を卒業後、ブラジル。フォルクスワーゲンの設計部門に入社、夜はドイツ語を習いながらという毎日でした。

その頃、私が日本から取り寄せていたモーターファンと言う月刊誌で見た、ドイツでフォルクスワーゲン社がGOLFで危機を逃れたという記事を見て、何故だと思い調べてみると、カブトムシは強くて良い車だが、鍛造、鋳造部品が多く、その為重量が多く、生産コストが高いので…、との説明が有ったので、それはブラジルでも起こりうると思い、ブラジルのカブトムシの後継ぎの、GOLというモデルを私が設計して提出したところ、それがドイツの本社で採用されて、私はドイツの本社に派遣され色々なアドバイスを受けてからブラジルに戻り、私がその車の設計を担当しました。
その車は、1980年5月15日から2022年12月23日までに、なんと、850万台を生産、販売と言う好成績をのこしてくれました。

私は、子供のころから自動車好きで、車ばかり作って遊んでいましたので、それが生涯の仕事になったみたいです。

2004年にブラジルフォルクスワーゲン社では、最初で最後の現地採用者の開発部部長(それまでは全てドイツから派遣されたドイツ人のみが部長の座についていた。)として,2004年に勇退してから20年、都心から29kmにあるコンドミニアムの中にある2000㎡土地に、自分で設計して建てた家に住んで、カントリージェントルマン気取りで博多美人の、今年で結婚60年になる愛妻と2人で、庭の木になるパパイア、バナナ、アボガード、ライチなどを楽しみながら余生を全うしております。

言い忘れましたが、2人の息子と1人娘そして5人の孫に3人の曾孫に恵まれました。
息子は、東へ200km、そして娘は、西に300kmの所でそれぞれ楽しく暮らしています。
遠いようですが、車で2-3時間です。


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4期(1951年(昭和26年)卒業 船曳孝彦さんの投稿
最初の文書は船曳孝彦さんが、70年以上も前の1952年、松中から進学した戸山高校に在学中で書いた論文です。その下のものは、70年以上たった現在筆者が自分の論文を読み直しての感想です。平均寿命が60歳になった頃に当時の高校生が書いた貴重な資料だと思います(会長・松永)
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<70年超前の論文>

                         東京都立戸山高校新聞 昭和27年5月
     人生六十年三年のびた壽命         
                    生物班研究 船曳孝彦

 「人生わずかに五十年」という言葉があるが、これからは「人生わずかに六十年」と改めなくてはならなくなった。
 26年(1~12月)の日本の人口動態を見ると、出生、死亡ともに減少の傾向があり、同年中の人口増加は1,314,516人で、秋田県あるいは、京都、姫路両市の人口を合わせただけ増加したことになる(厚生省統計調査部)
 先ず出生についてはその数2,157,414人で、25年のそれより20万人少なく、これはこの統計の始められた明治33年以来の最低記録で、出生率は千人につき25.6人と、昭和14年の26.6人より少ない。
 さて死亡の方は、842,898人で25年よりも6万6千人の減少。死亡率も千人につき10.0人とほぼアメリカ並みで、これも統計始まって以来の最低記録であり、昭和11年の17.5人に比べ相当少なくなっている。
 これらのため平均壽命が延び、男60.8歳(58歳)女64.8歳(61歳)となり、平均約3年延びている(カッコ内は25年)。
この壽命を各国に比べると、イギリス(1937年)デンマーク(1936~40年)の上ではあるが、これら両国は15年前に既にこの域に達していたことは、まだまだ日本がこの方面で西欧諸国に比して、非常に遅れていることを意味している。しかも昨年あたりは戦争による死亡が直接的にも間接的にも最も少なかった年であることを考えると、絶対数のみに拘って考えないようにしなくてはならない。
 このように死亡率が減った原因は、一つには前述の戦争の影響もあるが、もう一つの理由に結核の死亡が激減していることがある。これはストマイ等の薬剤の普及によるものと見られ、近頃話題の新薬イソニコチン酸ヒドラジドも既に実験の段階にあり、前途は明るい。結核死亡者は明治42年以降毎年10万台で、これを割ることが懸案であったが、ついに93,654人となり、昭和14年の15万3千余人、即ち人口1万に対して21.2人の比率が11.1と文字通り半減したことは日本結核史上特記すべきものである。更に今まで大きな問題点であった20~24歳の青年男女層の結核死亡率が、25年に比較して35%も低下していることは特筆すべき事柄である。しかし、ここで我々が注意しなければならないのは、結核死亡者が減ったことが結核に感染するものが減ったことを意味しないということである。「大学受験」も健康でなくては意味がない。我々はこれから結核の一番危ない年齢層に入って行くのである。
数字の上からは西欧諸国にまだまだ劣るとしても、結核国の汚名を返上しつつあることは明らかで、一日も早く完全に返上することを心から念願する。
 又その他の死亡原因を見ると死産が増加しており、赤痢、ハシカ、交通事故などによるものが多くなっている。交通事故防止は六三型に乘らず、飛行機にも乘らないこと(?)。
全体として死亡者と年齢とはどんな関係にあるだろうか。ほぼ満10歳に至るまでに死亡者数は年々急激に減少し、満10歳頃には最も少なくなり、その後は又増えだし、満70歳~80歳が最も多くなり、その後再び少なくなって行くことが多くの国で一般的な傾向として認められている。
又、他の生物と比較してみると、クマ(50年)ハト(50年)ラクダ(50~60年)と人間とはほぼ同じ位の壽命を持つものでも、「クマ生60年」「ハト生60年」となるはずはなく、寿命を人為的にどんどん延ばして行くのが人間の特徴である。もっとも他の生物と比較するにあたっては百分壽命といって、その最高寿命を百とし、全体を百等分し夫々の種類において死亡数がどのように分布しているかを以って比較するのであるが、それを用いてもクマ、ハト共に壽命が延びて行くことはないだろう(たとえ延びても微々たるもので比較にならない)。
そこで我々は既に死亡原因の大きな一つである早産、死産も過ぎ、ハシカの心配も少なくなり、老衰は致し方ないとするならば、まず病魔の予防を怠らないようにすると共に、自殺などもせず、長く生きようではないか。
(筆者は本校生物班班長)

<70年超後で自分の論文を読んで>
     高校時代の小論文を読んで         
                                 2023.6.  船 曵 孝 彦
 昭和27年に都立戸山高校新聞に生物班研究として寄せた『人生六十年=三年のびた壽命』のコピーをひょんなことから手にすることが出来た。
 文章の校正や、著者名が舟曵とご印刷されていることからして、印刷上の校正も十分行われていないなどの難点はあるが、最少限度の校正をして読み返してみると、十分読むに堪える内容になった。また当時と現代の統計資料を検索し、比較し直してみた。
 先ず、寿命が60年となったことがニュースであることに今昔の感がある。現在男性81.5歳、女性87.6歳と比べると20年以上の差があり、当時では思いもしなかった差である。出生率は1000人当たり25.6人と下がったとしているが、現代の1000人当たり0.6人とは2桁も違い、一方の死亡率も1000人当たり10人(アメリカ並みとなったと喜んでいる)と、現在の0.13人とはやはり2桁違っている。
 総人口は8,457万人(論文中には出てこない)から今の1億2450万人とほぼ5割増しになっているが、秋田県の人口が130万人、京都市・姫路市合わせて130万人というのにも驚く。日本で3番目の大都市京都が百万都市になるかどうかの境目だったとは。
 当時の死亡率を低下させた原因について、まだ戦後間もない時期であり、西欧諸国の文明に驚いている時代であった。
まず結核死亡、特に青年層での減少を挙げている。抗結核剤の出現以前は結核イコール死と見做されていた。実はすぐ後からペニシリンなどの一般抗生剤の普及も大きく貢献したのだが、感染症の世界は全く様変わりした。戦前に脊椎カリエス、混合感染を患った私自身はよく生き残れたと思う。現在結核による死亡は激減し、抵抗力の低下した老人の病となっている。結核国の汚名が除かれたことは喜ばしいことである。
そして感染症は今回の新型コロナウィルスのような次から次にと発見されるウィルスの時代となった。
 他の死因について、死産、赤痢、ハシカが出ていることも当時を反映している。当時はどこにでもある感染症だった赤痢は、最近耳にすることもなくなった。また、交通事故死が問題なりつつあった頃でもあった。
 高校生として学んだ時から、実に71年という月日が流れ、87年余りを生き抜いてきたことを振り返り、社会情勢の劇的変化を思い知らされた貴重な資料となった。

船曳さんの投稿おわり
                          




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最終更新日 2024年10月2日