4期(1951年(昭和26年)卒業 船曳孝彦さんの投稿
最初の文書は船曳孝彦さんが、70年以上も前の1952年、松中から進学した戸山高校に在学中で書いた論文です。その下のものは、70年以上たった現在筆者が自分の論文を読み直しての感想です。平均寿命が60歳になった頃に当時の高校生が書いた貴重な資料だと思います(会長・松永)
<70年超前の論文>
東京都立戸山高校新聞 昭和27年5月
人生六十年三年のびた壽命
生物班研究 船曳孝彦
「人生わずかに五十年」という言葉があるが、これからは「人生わずかに六十年」と改めなくてはならなくなった。
26年(1~12月)の日本の人口動態を見ると、出生、死亡ともに減少の傾向があり、同年中の人口増加は1,314,516人で、秋田県あるいは、京都、姫路両市の人口を合わせただけ増加したことになる(厚生省統計調査部)
先ず出生についてはその数2,157,414人で、25年のそれより20万人少なく、これはこの統計の始められた明治33年以来の最低記録で、出生率は千人につき25.6人と、昭和14年の26.6人より少ない。
さて死亡の方は、842,898人で25年よりも6万6千人の減少。死亡率も千人につき10.0人とほぼアメリカ並みで、これも統計始まって以来の最低記録であり、昭和11年の17.5人に比べ相当少なくなっている。
これらのため平均壽命が延び、男60.8歳(58歳)女64.8歳(61歳)となり、平均約3年延びている(カッコ内は25年)。
この壽命を各国に比べると、イギリス(1937年)デンマーク(1936~40年)の上ではあるが、これら両国は15年前に既にこの域に達していたことは、まだまだ日本がこの方面で西欧諸国に比して、非常に遅れていることを意味している。しかも昨年あたりは戦争による死亡が直接的にも間接的にも最も少なかった年であることを考えると、絶対数のみに拘って考えないようにしなくてはならない。
このように死亡率が減った原因は、一つには前述の戦争の影響もあるが、もう一つの理由に結核の死亡が激減していることがある。これはストマイ等の薬剤の普及によるものと見られ、近頃話題の新薬イソニコチン酸ヒドラジドも既に実験の段階にあり、前途は明るい。結核死亡者は明治42年以降毎年10万台で、これを割ることが懸案であったが、ついに93,654人となり、昭和14年の15万3千余人、即ち人口1万に対して21.2人の比率が11.1と文字通り半減したことは日本結核史上特記すべきものである。更に今まで大きな問題点であった20~24歳の青年男女層の結核死亡率が、25年に比較して35%も低下していることは特筆すべき事柄である。しかし、ここで我々が注意しなければならないのは、結核死亡者が減ったことが結核に感染するものが減ったことを意味しないということである。「大学受験」も健康でなくては意味がない。我々はこれから結核の一番危ない年齢層に入って行くのである。
数字の上からは西欧諸国にまだまだ劣るとしても、結核国の汚名を返上しつつあることは明らかで、一日も早く完全に返上することを心から念願する。
又その他の死亡原因を見ると死産が増加しており、赤痢、ハシカ、交通事故などによるものが多くなっている。交通事故防止は六三型に乘らず、飛行機にも乘らないこと(?)。
全体として死亡者と年齢とはどんな関係にあるだろうか。ほぼ満10歳に至るまでに死亡者数は年々急激に減少し、満10歳頃には最も少なくなり、その後は又増えだし、満70歳~80歳が最も多くなり、その後再び少なくなって行くことが多くの国で一般的な傾向として認められている。
又、他の生物と比較してみると、クマ(50年)ハト(50年)ラクダ(50~60年)と人間とはほぼ同じ位の壽命を持つものでも、「クマ生60年」「ハト生60年」となるはずはなく、寿命を人為的にどんどん延ばして行くのが人間の特徴である。もっとも他の生物と比較するにあたっては百分壽命といって、その最高寿命を百とし、全体を百等分し夫々の種類において死亡数がどのように分布しているかを以って比較するのであるが、それを用いてもクマ、ハト共に壽命が延びて行くことはないだろう(たとえ延びても微々たるもので比較にならない)。
そこで我々は既に死亡原因の大きな一つである早産、死産も過ぎ、ハシカの心配も少なくなり、老衰は致し方ないとするならば、まず病魔の予防を怠らないようにすると共に、自殺などもせず、長く生きようではないか。
(筆者は本校生物班班長)
<70年超後で自分の論文を読んで>
高校時代の小論文を読んで
2023.6. 船 曵 孝 彦
昭和27年に都立戸山高校新聞に生物班研究として寄せた『人生六十年=三年のびた壽命』のコピーをひょんなことから手にすることが出来た。
文章の校正や、著者名が舟曵とご印刷されていることからして、印刷上の校正も十分行われていないなどの難点はあるが、最少限度の校正をして読み返してみると、十分読むに堪える内容になった。また当時と現代の統計資料を検索し、比較し直してみた。
先ず、寿命が60年となったことがニュースであることに今昔の感がある。現在男性81.5歳、女性87.6歳と比べると20年以上の差があり、当時では思いもしなかった差である。出生率は1000人当たり25.6人と下がったとしているが、現代の1000人当たり0.6人とは2桁も違い、一方の死亡率も1000人当たり10人(アメリカ並みとなったと喜んでいる)と、現在の0.13人とはやはり2桁違っている。
総人口は8,457万人(論文中には出てこない)から今の1億2450万人とほぼ5割増しになっているが、秋田県の人口が130万人、京都市・姫路市合わせて130万人というのにも驚く。日本で3番目の大都市京都が百万都市になるかどうかの境目だったとは。
当時の死亡率を低下させた原因について、まだ戦後間もない時期であり、西欧諸国の文明に驚いている時代であった。
まず結核死亡、特に青年層での減少を挙げている。抗結核剤の出現以前は結核イコール死と見做されていた。実はすぐ後からペニシリンなどの一般抗生剤の普及も大きく貢献したのだが、感染症の世界は全く様変わりした。戦前に脊椎カリエス、混合感染を患った私自身はよく生き残れたと思う。現在結核による死亡は激減し、抵抗力の低下した老人の病となっている。結核国の汚名が除かれたことは喜ばしいことである。
そして感染症は今回の新型コロナウィルスのような次から次にと発見されるウィルスの時代となった。
他の死因について、死産、赤痢、ハシカが出ていることも当時を反映している。当時はどこにでもある感染症だった赤痢は、最近耳にすることもなくなった。また、交通事故死が問題なりつつあった頃でもあった。
高校生として学んだ時から、実に71年という月日が流れ、87年余りを生き抜いてきたことを振り返り、社会情勢の劇的変化を思い知らされた貴重な資料となった。
船曳さんの投稿おわり
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